おかげさまで 83期 波多野 敏郎

豊浦高校を卒業して、もう45年がたとうとしている。大学を卒業し、山口県中学校教員に採用され、教育現場で働くことになった。そして、勤務地が下関市になってからは、生徒の進学先としての豊浦高校、そして豊浦高校の卒業生とかかわる機会が増え、豊高卒ということで、公私ともに随分と助けられたように思う。

 まず、初対面の方と話をする中で、出身地やこれまでの経歴について話す場面になった時に、何期かという話になると、急に距離が近づいたことが何度もあった。特に私の周りには豊高出身の教員が多く、「83期です」と言った瞬間から、大変かわいがっていただいた。もちろん、過分な役割をいただくこともあった。

 今回のこの寄稿も、今勤務している私立高校で隣の机にいる「96期」の後輩から原稿依頼があり、書くことになってしまった。

 これまでの豊浦高校との関わりを思い出してみたい。下関に異動になり最初に勤務したのが当時新設された中学校だった。なぜか豊浦高校と中学校の教員の交流会があり、会の最後には豊浦高校の校歌を歌った。大学時代にも豊浦会があり、年に何度か集まる機会があり、その際に校歌を歌っていたおかげで、20代の私は怒られずに済んだ記憶がある。

 それから中学3年生を担任するたびに豊浦高校の担当となり、多くの生徒を送り出してきた。高校1年生になった生徒が中学校へ遊びに来るのはよくあることだが、赤・黄・青のバッジが変わらずに続いていることは、子どもたちにとって結構驚きだったようである。

 2003年、男女共学になる年は旧市内の中学校で3年生を担任しており、初めて女子の豊高生を送り出した。初年度は50名以上の女子生徒が入学したそうで、のびのびと高校生活を送っていたらしい。余談ではあるが、下関南高校も同じ年に男女共学になった。しかし、男子生徒は十数人で、「肩身は狭いけれど、男子で団結している」と、中学校に遊びに来た教え子の男子生徒が話していたことを思い出した。

 また、中学校では部活動をもつのが当たり前で、自分は経験のないバレーボール部の顧問を長年務めた。下関市内の高校に連れて行っては、高校生との合同練習や練習試合をしていただいていた。当時、豊浦高校女子バレーボール部の監督は「85期」の三谷和徳先生で、豊高の体育館に行き、高校生の時には入るのが怖かった体育教官室でコーヒーをいただくこともあった。

 令和になり、長府地区の中学校で校長を務めることになり、豊浦高校の学校運営協議会委員として、授業を参観したり、学校運営について話を聞いたりする立場となった。なお、バレーボールでお世話になった三谷和徳氏が校長で、本当に縁を感じながら委員を務めさせていただいた。2024年と2025年3月1日の卒業証書授与式には来賓として出席させていただいた。中学校から校長として豊浦高校に送り出した生徒が私を見つけ、笑顔で会釈をしてくれた。そして一緒に校歌を歌い、思い出に残る卒業式となった。

 現在は下関市内の私立高校に勤務している。職員室の教員20名中7名が豊浦高校の卒業生という、豊高率の高い職場である。退職後も働かせていただける環境に感謝しながら、自分なりに、生徒に、学校に、そして社会に貢献したいと考えている。

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