私が豊浦高校に在学したのは1966年から1969年、日本の高度成長期ど真ん中で、人口が1億人を突破し、GDPが世界2位となり、日本中が、明日は今日より良い日になる、と信じていた頃だった。
ビートルズやツイッギーが来日し、テレビを点ければグループサウンズが入れ替わり登場し、深夜にはオールナイトニッポンがテンポの良いテーマ曲で時代との一体感を醸していた。世界では、ベトナム戦争や文化大革命などの不幸な出来事が激化していくなか、日本は活力溢れる明るい世相であった。
そんな開放的なムードの中、1964年から海外旅行自由化が始まり、ヨーロッパ貧乏旅行、行けば何とかなるさブームが若者の心を捉えた時代だった。
私には、叔父が外航船に乗っており、もともと海外志向があったが、豊浦高校にも同志がいた。友人のNとTで、大学に入ったらヨーロッパに行こう、と約束した。受験勉強もそこそこに、学校の図書館でヨーロッパ情報収集に熱中する。パリの地図を暗記して、お煎餅もお上品に「パリ、パリ」と食べるようになった。


東大の入試がなかった1969年、滑り込みで大学へ。入学後は学園紛争でアルバイト生活が続く。2年後、いざヨーロッパへ。Nは、さっさと学生結婚し「頑張って来いよー」と脱落、Tと二人で出発した。
横浜から船に乗ってナホトカまで行き、シベリア鉄道でモスクワ経由フィンランドへ抜ける現地解散型ツアーだった。学生鉄道パスでヨーロッパ各地を見て回り、夢にまで見たパリでは大感激だった。
帰国運賃稼ぎのため、Tはイギリスへ、私はスイスに。資金ができて、叔父の船が入ると情報のあったアフリカ沖のカナリア諸島(日本のマグロ漁業基地があった)へTと向かう。叔父の船に日本まで乗せてもらおう、という魂胆であったが、部外者は乗船不可とのことで、安上がりの中近東・インド経由で帰ることにした。
北アフリカを通り、チュニジアまで来たところで、銀行でドルの交換が停止される。ニクソンショックで一夜にして360円が300円のドル安となった。加えて、インド・パキスタン戦争が始まり、国境が閉鎖されたらしい。ここは潔く最安運賃のモスクワ経由で帰国、すっからかんで下関までたどり着いた。
旅の魅力に味を占めてしまった私は、残された学生生活を、アルバイトと、行きそびれたインドへの旅を繰り返して過ごした。インドに魅了されて、パンダ初来日も、長嶋引退も、横井さん帰還も我関せずで、下宿でインドのお香を焚き、インド音楽を聴いて、ヨガ瞑想する毎日を過ごした。
旅三昧の学生生活が年貢の納め時となった1975年3月、就職が決まっていた中堅商社から通知が届いた。「石油ショックで会社経営に甚大な影響があり、新入社員の入社は10月とする」との衝撃的な内容であった。
「そうだ、旅に出よう」、通知を見て心配気な両親から資金を借り、私は4月カトマンズに飛んだ。ヒマラヤを歩いた後、想い出のヨーロッパを目指した。インド、パキスタンを通り、アフガニスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリア、スイス、そして9月に懐かしのパリへ。ネパールから履いていたゲタの歯が擦り切れて薄いイタになっており、シャンゼリゼをパタパタと歩いた。
パリでは、日本の旅行代理店で購入したパリ東京間の航空券引き換えバウチャーなるものを、指定されたエージェントに持参したところ、「この旅行代理店は先月倒産しており、このバウチャーは無効ですね」とあっさり言われた。
持ち金がほとんど尽きていて、10月の入社が迫っており「何とかしてくれ」と頼んだが要領を得ない。仕方なく、ソルボンヌ大学の学生寮に転がり込み、フランスパンとレタスと安ワインで凌いだ。連日エージェントと交渉し、2週間後に何とか東京行きのチャーター便に滑り込むことができた。出発前夜、オペラ座裏の日本料理屋でラーメンをすすったが、涙と鼻水でスープがしょっぱかった。
最悪の船出となった社会人生活だったが、その後、1980年代はアラブ首長国連邦のアブダビ、1990年代はベトナムのブンタウ、2000年代はマレーシアのミリ、2010年代は再びベトナムのハノイ近郊で、石油開発事業に従事した。自ら跳び込んだ結果とはいえ、気がつくと海外勤務は合計で30年になった。
そして現在は退職し、かつて勤務したベトナムのブンタウという町に住んでいる。ホーチミン市から南東へ150kmほどにある海に囲まれた保養地です。海鮮料理の美味しい、住みやすい場所で、毎日を元気にのんびりと楽しんでいる。
浜辺で、遠くの外航船を眺めていると、あの豊浦高校の図書館で「パリ、パリ」と夢見ていた頃が、時代(とき)を超えて、本の匂いと共に蘇ってくる。まだまだ人生の楽しみを味わいたい。これから先、運命は私に何を見せてくれるのだろう。


コメント